IAI「GUERCINO」:IAI

「アイ・エイ・アイ」:IAI

国立西洋美術館
国立西洋美術館
〒110-0007 東京都台東区上野公園 7-7


GUERCINO 国立西洋美術館
 グエルチーノ(1591-1666年)は、17世紀(今から300年以上も前)のイタリア・バロック美術を代表する画家として知られています。 カラヴァッジョやカラッチ一族によって幕が開けられたバロック美術を発展させました。 一方、彼はアカデミックな画法の基礎を築いた一人でもあり、かってはイタリア美術史における最も著名な画家に数えられました。 19世紀半ば、美術が新たな価値観を表現し始めると、否定され忘れされてしまいましたが、20世紀半ば以降、再評価の試みが続けられており、特に近年ではイタリアを中心に、大きな展覧会がいくつも開催されています。 国立西洋美術館もグエルチーノの油彩画を1点所蔵していますが、今回はこの知られざる画家の全貌を、44点の油彩画によってお見せします。
わが国初のグエルチーノ展です。
出品作品の多くはチェント市立絵画館からお借りします。 実はチェントは2012年5月に地震に襲われ、大きな被害を受けました。 絵画館はいまもって閉館したままで、復旧のめども立っていません。 本展は震災復興事業でもあり、収益の一部は絵画館の復興に充てられます。


会期: 2015 3/3.火〜5/31.日 展覧会は終了しました。
休館日: 毎週月曜日 ただし、3月30日、5月4日、5月18日は開館
開館時間: 午前9時30分〜午後5時30分(金曜日は午後8時まで)
※入館は閉館の30分前まで
会場:
国立西洋美術館 東京・上野公園
主催:国立西洋美術館、ボローニャ文化財・美術館特別監督局、チェント市、TBS


「彼の筆の軽妙さ円熟さはただ驚嘆のほかはない。」 ゲーテ
「最後の大画家」 スタンダール

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「グエルチーノ展」開会式(国立西洋美術館)
「グエルチーノ展」
開会式 & プレス内覧会 3/2 '2015

バロックの最も重要な天才画家グエルチーノの全貌を仰ぐ
【展覧会の構成】 ― 「グエルチーノ展」図録、PRESS RELEASEよりの抜粋文章です ―
 本展の各章では、グエルチーノの質の高い代表作が9割と、その周辺の画家の作品が数点、合計44点弱の展示となります。 展示作品は1点、1点が非常に大きく 2m〜3m 以上の油彩画作品が沢山出品されます。 特に17世紀イタリア絵画では大規模な作品が顕著で、大きい画面に集中力のある描写、それによって圧倒的迫力をもって迫ってきます。 展覧会構成は、年代順にグエルチーノに焦点を当てた展覧会ですが、グエルチーノを窓としてイタリアバロック全体の広がりを理解する展覧会なります。
グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家」の5章による展覧会構成
T 名声を求めて
U 才能の開花
V 芸術の都ローマとの出会い
W 後期@ 聖と俗のはざまの女性像―グエルチーノとグイド・レーニ
X 後期A 宗教画と理想の追求

プレス内覧会の会場風景と出展作品です、画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。

ルドヴィコ・カラッチ《聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち》
T 名声を求めて
 グエルチーノはわずか8歳にして聖母の絵を家の壁に描いたという。 早熟かつほぼ独学で絵の技術を身につけ、ルドヴィコ・カラッチだけでなく、フェラーラの画家たちやほかの同年代の画家たちの表現も吸収している。 1613年才能を認められ、チェントのスピリト・サント聖堂のために大きな祭壇画(現存せず)など注文される。 さらにボローニャに活動の場を広げる。 この時期チェントで壁画装飾もいくつか引き受けている。

ルドヴィコ・カラッチ(1555-1619) 《聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち》 1591年
油彩/カンヴァス 225 x 166cm  チェント市立絵画館蔵
 この絵は若きグエルチーノにとって最も重要な手本となった。 この絵を通じて絵画の滋養を汲み取っていたことをグエルチーノは自認していたのである。 この絵から強く生き生きとした明暗法を学んだという。

グエルチーノ《幼児キリストを崇める聖母と悔悛の聖ペテロ、聖カルロ・ボッロメーオ、天使と寄進者》
U 才能の開花
  ボローニャの成功裏に、1617年トスカーナ大公やルドヴィージ枢機卿、その他の人々からの注文に撲殺されており、実りの多い年となった。 グエルチーノの描く人物のポーズはより自然で動きに満ち、重要なのは独特な明暗表現である。 フェラーラでのグエルチーノは宮廷画家のような身分を持ち、枢機卿の許可なく町を離れることはできなかった。 1620年マントヴァ公から騎士に叙され、おそらくセッラ枢機卿からも騎士に叙されている。

グエルチーノ 《幼児キリストを崇める聖母と悔悛の聖ペテロ、聖カルロ・ボッロメーオ、天使と寄進者》
1618年 油彩/カンヴァス 229 x 155cm チェント市立絵画館蔵
  この絵はチェントのサン・ピエトロ聖堂のために制作されたもので、上空に浮かぶ聖母子を前景左の聖ペテロと聖カルロ・ボッロメーオが見つめ、右では天使が寄進者に聖母子を指し示している。 寄進者の方に左足を伸ばすペテロによっても彼を聖人と天使、聖母子へとつなげ、難問を解決している。

グエルチーノ《聖母被昇天》
V 芸術の都ローマとの出会い
  1621年グエルチーノ30歳、教皇グレゴリウス15世に招聘され、ローマへ移住。 ローマ滞在によって地方画家から、イタリアを代表する画家となった。 1623年サン・ピエトロ大聖堂のための巨大な祭壇画 《聖ペトロネラの埋葬と被昇天》 を完成。 ローマで制作したイリュージョニズムや衣襞の表現は、ベルニーニなどバロックの芸術家に大きな影響を与えた。 グレゴリウス15世死去に伴いチェントへ帰郷、イタリア中さらにはヨーロッパ各地から注文が寄せられた。

グエルチーノ 《聖母被昇天》 1622年頃 油彩/カンヴァス 224 x 166cm
チェント、サンティッシモ・ロザリオ聖堂蔵
 被昇天の聖母を仰ぎ見た絵で 、特殊な構図や強い明暗が掻き立てるドラマと、信仰の対象としての機能とが無理なく両立している。 サンティッシモ・ロザリオ聖堂はグエルチーノにとって後には
一族の礼拝堂が設置されることとなる。

グエルチーノ《スザンナと老人たち》
W 後期@ 聖と俗のはざまの女性像―グエルチーノとグイド・レーニ
  この章では女性像を例にとって、この時期のグエルチーノが最も意識した画家グイド・レーニとの比較をしつつ、グエルチーノの個性を探る。 人間の悪徳に対する女性美の精神性と肉体、聖と俗のパラドックスはバロック美術の特徴の一つである。 ボローニャ派の一人者レーニの圧倒的な影響力のもと、この時期のレーニが現実を否定し、頭の中にある抽象化された美を追求したのに対し、グエルチーノは現実にとどまる画家であったが、二人の違いは理想化/現実性の程度と方法にあった。

グエルチーノ 《スザンナと老人たち》 1649-50年
油彩/カンヴァス 132.5 x 180cm パルマ国立美術館蔵
 この旧約聖書外伝の物語は伝統的に救済と神の正義の象徴とされてきたが、一方で16世紀以降は女性のヌードを描く口実とされ、しばしば描かれることとなる。

グエルチーノ《説教する洗礼者聖ヨハネ》
X 後期A 宗教画と理想の追求
  1642年、カストロ戦争から逃れ、ボローニャに移った。 グイド・レーニの死後、画家としての評価は絶頂を迎えた。 1666年(75歳)グエルチーノの死後、18世紀には新古典主義のもとグエルチーノはイタリア美術史上最大の画家の一人とされた。 しかし、19世紀には入ると個人の内面や素朴な純粋さがより重視され、初期ルネッサンスが再評価されたのとは対照的に、 美術アカデミーの基礎を築いた17世紀美術の評価が下がり、グエルチーノも美術史の表舞台から姿を消す。

グエルチーノ 《説教する洗礼者聖ヨハネ》 1650年
油彩/カンヴァス 321 x 196.5cm チェント市立絵画館蔵
 右手で天を指す全身像の洗礼者聖ヨハネを、レーニは何度も描いている。 グエルチーノは、ここでレーニを意識しているが、明快な肉体の描写や空間構成とともに、後期のグエルチーノの様式を端的に示す作品である。


チェント市
「チェント & ボローニャ」
知られざる画家グエルチーノ  (「グエルチーノ展」図録よりの抜粋文章です)
 16世紀から17世紀にかけてチェントの町の建物は一新され、また町には文学アカデミーに代表される文化、演劇、同信会による宗教の熱気が満ちて、これが特筆すべき伝統となっていた。 1万人弱の人口を抱えたこの町は濠と城壁に囲まれ、4つの城門のある場所に跳ね橋があって、道は広場へと通じていた。 人々を養ったのは農業と麻の加工品である。 グエルチーノの早熟さと生来の才能は、ルドヴィコ・カラッチ(1555-1619)のようなきわめて著名な画家によっても、すぐに認められた。 ルドヴィコは、チェントの若者の芸術に新たな世紀の新しい様式を見て取ったのである。 それは芸術を混合したいまだかつてないもので、カラヴァッジョの絵画やアンニーバレ・カラッチの古典主義といった、同時代の偉大な様式にとって代わるものであった。 17世紀イタリア絵画を俯瞰した時、グエルチーノはバロックという新たな様式を代表する存在であり、間違いなく1617年からの数年において彼の右に出る者はなく、チェントという小都市に留まりながらも国際的な関係を保った。 チェントと町の人々をこよなく愛したグエルチーノは、51歳になるまでこの小さな町に留まった。 1642年、いくつかの理由によって彼はボローニャへの移住を決意し、教皇領第二の都市で暮らすことになる。 “たまたま”、ボローニャ移住の決意は彼の “ライバル” (16歳年上のライバル)であったボローニャのグイド・レーニの死と時を同じくした。 同年の8月半ば、レーニは歿したのである。 彼の死はグエルチーノのボローニャ移住に一層の動機を与えることとなった。
  ポスト・ルネッサンス期のヨーロッパ文明において、芸術がどれほど重要な位置を占めていたかを理解するうえで、カトリック信仰が近代西洋文化の根幹をなしている点には留意しなければならない。 そのころイタリア及びその影響下にある地域では、絵画――フレスコ、板絵であれ油彩であれ、とりわけ公共の場に置かれた作品――は信仰の目的や要求に応える視覚イメージの制作に第一に活用された技術ジャンルであった。 16世紀の終わりから、ローマは絵画の需要の世界的中心地となった。 その理由には、現在我々が包括的に 「バロック」 と呼ぶヨーロッパの美学の新たな一幕を生み出した芸術上の改革に言語的な側面が強く、絵画と相通ずるものがあったことが挙げられる。 儀式、敬虔、宗教教化、社会における役割の表象が、イメージを必要としていた。 それゆえローマは、ヨーロッパのいたるところから数えきれないほどの多くの芸術家を引き寄せた。 芸術作品の探求熱はますます高まりを見せ、それら注文し所有するという知的趣味は奇特で尊大な習慣から政治・社会的に有効な 「武器」 へと変貌した。 ローマは普遍的にならんとし全世界への拡張を目指す神学的、宗教権力の本拠地として、ヨーロッパ随一の芸術的中心であった。
 グエルチーノは30歳(1621年) で初めてローマの地を踏んだ。 その時ローマの画壇はカトリック文化の単一性の精神を表明する様々な様式が流行し、その中でもベルニーニがエネルギーに満ちたバロック的フォルムの最も魅力的かつ最新の様式を代表していた。 早くも1621年のうちに、ルドヴィコ・ルドヴィージ枢機卿のヴィラに描いた 《アウロラ》 はベルニーニと同様に感覚的、心理的な効果の表現を自家薬籠中のものとし、アウロラの馬車が勢いよく駆け抜けていく情景の音や風を表現することに成功した。 若きグエルチーノの初期の絵画が見せた、画面外に描かれた構図とダイナミックな色彩は、すでに名声を得ていたグイド・レーニの作品の自己完結的な形態と構図と、ボローニャにおいてすでに対比を成していた。 この対比こそが今やローマにおいて、ヨーロッパのバロック芸術全体の展開にとって決定的な要素となったのである。 そしてきわめて示唆的かつ濃密な感情表現という特徴は、ベルニーニによる最も先進的なバロック展開と歩みを一にしている。 グエルチーノのローマ滞在は彗星のように一時的であったが、彼の独自の様式は確固たる名声をその地に残したのである。

お問合せ:03-5777-8600 (ハローダイヤル)
展覧会サイト:http://www.tbs.co.jp/guercino2015/
国立西洋美術館サイト:http://www.nmwa.go.jp/
主催:国立西洋美術館、ボローニャ文化財・美術館特別監督局、チェント市、TBS

後援:外務省、イタリア大使館
協賛:こだま印刷、損保ジャパン日本興亜
協力:サー・デニス・マーン義捐基金、アリタリア-イタリア航空、アルテリア
、日本貨物航空、日本通運、西洋美術振興財団

参考資料:「グエルチーノ展」図録、 Press Release、他。
※写真撮影の掲載等は、主催者の許可を得て行っております。

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